ごきげんいかがですか。
今回のテーマは「豊かな人」です。
さて、あなたは豊かさと聞いて何をイメージしますか?
お金でしょうか?心でしょうか?
豊かさは2つにわかれます。
①物質的な豊かさ
②精神的な豊かさ
①は「資産・豊富な食べ物・高い車・高級な衣類」などなど。
目に見える物質をたくさん持っているということになります。
②は「心が満たされている・不満や悩みがない・心が平和である・感受性が豊かである」などになります。
とはいっても、この定義は人によって変わります。
しかし「見える豊かさ(①)と見えない豊かさ(②)」があるのは、変わりません。
ある人は「たくさんの人が気にかけてくれること」を豊かさと思う人もいるでしょう。
ある人は「お金をたくさん使うこと」を豊かさと思う人もいますね。
人は、②の精神的な豊さんに「欠乏感」がございますと
「①の目に見える豊かさ(物質)を求める」ようになります。
目に見える豊かさとは、実は「肩書き」「社会的地位」「〇〇企業に勤めている」「役職」なども入ります。
自閉症であるか?そうでないか?というのは、①の物質的な豊さの領域に属しています。
もちろん、「自閉症」とは見えない障害といわれていますので、診断名自体は見えるものではありません。
しかしですね。
では質問してみましょう。
なぜ、見えないものなのにそんなに「診断名」を重要視しているのでしょうか?
それは、それが単なる見えない領域ではなくて、①の物質的な領域になってしまっているからなのです。
見えない豊さ(精神・心の豊かさ)の方が満たされていないとき
①(見えるもの)で埋めることができるのです。
つまり、「診断名にこだわる人」というのは、心の見えない領域に何かの欠乏感や不満がありまして。
(こだわる=ずっと受容できない人のことです)
(一時的にショックなことがあったら、誰でもすんなりと受容できなくて当たり前で、徐々に認識していきますので。当記事ではそうではなくて、一般的な受容する期間よりも長く受容できない人のことです)
(注意:完璧な受容はございません。誰でも節目などに受容できてたつもりが、環境などの状態によって戻ってしまうこともあります)
それの代わりとして「診断名」を物質的な何かと置き換えているのです。
例えば、見えない領域の代表的で私のとても身近で親しい感情である「不安」。
不安というのは、とても大切な感情であるから
それを消すというのは自分のいちぶを認めないということになります。
ですから、たいていの人は、不安をどうにか消化したりしてやり過ごすことができます。
あるいはその体験をしっかりと海馬、扁桃体が覚えることで、次回の「似たような不安感」に備えます。
しかし、この不安を自分自身がよくわかっていない場合。
「物質的な豊かさ」によって不安を打ち消そうとする心の動きが働くんですね。
(注意:私は感覚で書いています。これは私が自分を実験・検証として不安になった過去、どのような心理が働いてたか?を内観して得られたことです。
専門的なものを参照していないため、あくまで個人の意見としてご了承ください)
例えば、「1人で生きていけそうにない」という不安を潜在的に感じてる場合。
この場合は、「心の豊かさ(②)」の領域では、「生きていく力(エネルギー)が欠乏」しています。
それゆえ、①の目に見える物質的な力で補填をしようと試みます。
例えば、わかりやすい例でいいますと
自分で生きていけないと思っている女性は「お金を持っている男性」を過剰に求めたりします。
これは、自分の生きることに対する不安を「お金を持っている=生存能力が高い男性と結婚する」ということで、自分の不安感を補填しようとすることなどが代表例です。
これは、たまたま「お金」が安心感の象徴になっているときにそうなります。
反対に「見えないものを見えないもの」で補おうとする場合もあります。
この場合は、見えないもので補うおうとするので、さらに強いエネルギーになります。
不安を宗教か何かで埋めようとしたりとかですね。
これは「自分ではもう決められない・自分で人生を切り開ける自信がまったくない」ときに、「自信を持ってこれが正解だよ」いってくれる人を求めているのです。
自分で決めれないので、代わりに決めてもらう存在を求めるみたいな感じです。
そして、「決めてもらう」ためには「信じている人」じゃなきゃだめじゃないですか、
信じられない人に「決めてもらう」のは怖いので。
だから、宗教では「信じる」というのが強いエネルギー補填となって「信仰」になります。(笑)
あれは、私から見ると
「親の代わり・親子ごっこ」をしている団体ね。
だって、「信じられて決めてくれる大いなる存在」ってはじめは親ですからね。
笑いごとではないのです。
だから、「自分で決めていく経験」というのは「自分への信頼」という意味で重要なんですよ。
つまり、物質世界は、あとから反映されていくのです。
②見えない豊かさの領域➝①見える豊かさ
このような時系列でこの世の中に反映されています。
物質ができてから、エネルギーがつくられるのはないのです。
よく映画なんかで、小さいエネルギーの粒が集まって、そのあと物体があらわれたりしますよね。
エネルギーの存在のほうが先なのです。
エネルギーは見えない世界のことなので、感情なども見えない領域のものになります。
ですから「見えない心の豊さ」の部分で欠乏感・不足感があると
現実世界にそれが良くも悪くも影響を与えるのですね。
自閉症の診断にこだわる人(どうしても受容できない人)の場合、考えられるのは以下です。
- 自閉症を悪いものや劣等種と潜在意識で思ってる
➝「自閉症=人生が終わる・不幸になる」という思い込み(信念化)
➝子を自閉症と認める=子の人生が終わると親が認めることになる
=子どもの人生が終わることを認められるわけがない!! - 親の心の世界②に何かしらの欠乏感がある
=①「見えるもの」で代用・埋めたい
=うちの子は優秀でいないと私が困る!! - 親の心の世界②に何かしらの劣等感がある
=①「見えるもの」で代用・埋めたい
=うちの子の評価は私の評価
=障害の子(出来が悪い)
=親の私の評価も低くなる
=親として負け組だ・・・いやだ!!認められない!
まあ、代表的なのは、この3パターンなのです。
たいていは赤字の部分は表層(=顕在意識)に近くなってきますから、赤字のところは感覚の閾値が高い人でも
認知できると思います。
やっぱり見えない世界のパターンを解明しているのって、楽しいです。(笑)
上記は簡単に書いたので、その背景となる「前提の思い込み」なども関係してきます。
これは親と話せば、「あ、このパターンね」とすぐに分類できることでしょう。
その認知の思い込みのパターンを「同定」して、信念を変えれいけばいいのです。
端的にいうと、受容できにくい人というのは、自分自身に何かしらの「ひっかかり」があって大きい人ということです。
心の世界の「欠乏感」があると、人は物質世界での「何かにすがらないと」
保てないので、その「すがるもの」や弱いのは許せないのです。
だって生きるか死ぬかになるでしょう?(笑)
それを許す=許可なんてとうていできないですよね。
生きていけないような気分になってしまいますものね。
それはでも、幻想なんです。
これがあまりにも強いと妄想になってしまいます。
人はたいていの頭の中で考えることはすべて妄想といっても過言ではないのですが
それでも「未だ起きてない未来のこと」を
「この子は不幸になる」と強く信じ込んでしまったりすると
それはもう妄想なんですね。
「現在、実際にいじめられてもない」のに、将来は社会に出ていじめられるから人生終わった。とかそんな感じです。
あと「社会が自閉症に優しくなればこっちは安心できるから生きれるのに!!!=私が受容できなかったり、子どもを怒るのは社会がそうさせるから!」というのも、ちょっと違います。
確かに、社会においてあきらかに「自閉症だからという理由で差別や偏見を受けること」はよくないです。
この偏見による不利益や当事者の尊厳の尊重や、社会全体が自閉症の理解を進んで欲しいと願うことは大事なことです。
それは声をあげる権利があると思います。
しかし、自閉症の親の中には上記ではなくて、自閉症のすべてを受け入れて許してくれたら、自分も育てられるのに責任転嫁として使う人がいます。
私にはこの一見「社会への問題提起」に見せかけて「ただ自分が障害のある子にむきあっていってないことを社会が悪いと転化しているだけ」の意見に、賛同が集まるのが不思議でなりません。
まあ、それだけ、同じ意見の人が多いってことなんでしょうね。
これは責任を放棄して社会のせいにしているだけなのです。
これは「電車で騒いでる子ども」に「そんなことしてると隣のおじさんに怒られるよ」といっている親と同じなのです。
つまり、「電車で怒られるから注意してるだけ」といっています。
これは「周りが怒らなければ、私が怒る必要ってないのに」といっているということです。
「周りが騒ぐのを許してくれないから、私が怒るはめになっている」といっているのです。
「社会(周りが)受容してくれないから、私が我が子を受容できないはめになっている」っていってるのと同じでしょう?
そうではないのです。
社会はそういうものとして、存在している。
そのことと、自分の世界は違うのです。
社会から、自閉症の偏見をゼロにするのは無理なんですよ。
だから、それに負けないようにするしかないんです。
しかし、負けないとは勝つことではない。
社会に影響されないことです。
社会に負けましょう。
負けて勝つのです。
つまり、スルーして、自分で「自閉症のイメージ」を決めればいいということです。
なぜ「社会からの見られ方」をそんなに気にするの?
社会で言われていることが、正義なの?
そんわけないじゃない!!(笑)
社会の目なんてどうでもいいの、どうでもいいんです。
だって、1つも私に影響を与えないのだから。
私が採用しているの。
私が世間の価値観を採用しないと決めたら、価値観に取り入れません。
「自分で決める」ようにしていたら
自閉症のことをバカにする人がいても、昔よりも「わかってほしい」と思わなくなってきました。
「周りがわかってくれない」と責めることもなくなった。
(そんな時期あったけ?しっ!建て前ってやつだよ。ああ、嘘がつけないのか、やれやれ。)
社会や周りの人が、わかってくれなくても、自分が「自閉症をどう思うか?」は自分で決めていいのです。
相手(社会)がこう思っているから、私もこう思わざるを得ないというのは自分の人生を自分で決めきれていません。
受容がなかなかできない人は、自分の人生を生きてない人なんです。
被害妄想に近くなってしまうんですよね。
そうすると、「どうして私だけが・・・」となって
「社会がもっと障害のある人を受けいれてくれないからだ」となって
自分の心に向き合って、子どもの心に寄り添うことができなくなります。
そうすると「子に必要な支援」も見えてこないし
自分が親として何ができるのか?もわからなくなる(見えない)
だから、「こんな子には何もできることなんてない」ってなる。
たしかに強度行動障害になってしまうと、立て直すのは困難を極めると思います。
でも、生まれたときからそうではないのです。
だから、一日でも早く自閉症の人が「自閉症である」と診断されて
しかるべき支援の方法や、周りの世界を認識できる方法を子に伝えてくれる福祉サービスにつながることを
私は願っています。