ごきげんいかがですか。
ブログ読んでいたら自己犠牲という言葉を見つけました。
「自己犠牲ってなんだろう・・?」と思ったので
今日は、「自己犠牲」について考えてみたいと思います。
いえ、言葉の意味は知っています。
「自分を犠牲にすること」でしょう?
でも、自己犠牲してるっていう気持ちを、私、知らない。
ピンとこないの。
だから、どんな時、どうしたら、そんな気持ちになるのだろう?って興味沸いてしまうの。
私、自分が知らない感情を分析するのが好きなんです。
それに「あの場面」の「あの感情A」が。
「自己犠牲という感覚Bだよ」って
分離しているので
「ああ・・!!あの感覚なのね!!それに名前がついているのね」
ってなるのです(笑)
「何言ってるんだろう?」って思いますよね?
でも、皆さんだって「顔は浮かぶ」けど「名前は知らない」ことって
ございますでしょう?
照合させているでしょう?
マッチさせて、生きてきたのでしょう?
だから、何度も申し上げているように。
この世界、混ざったあとの世界を見ているようだわ、
それに。
みなさんの中には。
「まざったあとの世界しか見えない」人もいらしゃるようなのです。
つまり「紫」を見たら、紫としか見えない人がいるのですね?
ううん。
基本的には、赤の要素と青の要素。
これらが混ざっているのが、紫。
「赤(要素A)」+「青(要素B)」=紫(Cという名前)
こうでしょう?
みなさんだって、見えているんですよ?
紫を見て
でも「ロイヤルパープル」だな。
とか
「フクシアっぽい色見だな」とか。
思うでしょう?
青みのある紫か?
赤みのある紫か?
は「色の中で無意識に読み取れるでしょう?」
感覚ってそんな感じ(笑)
その「色見の違い」を因数分解して、共通項を導き出して、
膨大なデータをためておくの。
すると、何日か?何ヶ月か?
はたまた、数年後か?
それはわからないけれど
いきなり点と点がつながったりするのね!!
それが面白いから、私。やっているようなものだわ。
この世界や、人間というものを知りたいので。
さて、自己犠牲ですね・・・
私が自己犠牲で思い浮かぶのって
うーーーん
やっぱりないわ。
だって、なんでも「自分は損してる」って思ったら
なんでも「自己犠牲」になれるもの。
犠牲者なんでしょう?
なんの?
だから、これが自己犠牲っていう場面は見当たらなかったわ。
親は、自己犠牲とは、反対の存在ですし。
思い当たること出来事はないわ。
自己犠牲は、「愛」が歪んでしまったものだから。
愛=自己犠牲
と間違えて覚えている人は
愛を与えているつもりで、「自分だけ損している」「自分ばかり犠牲になってる」みたいな思考になるのかしら?
でも、それは愛ではないです。
愛には、そんなマイナスのエネルギーは入ってこないので。
愛って、内側から、わりと能動的というか
主体的に発揮するものなの。
主体性がないから、「自分は~させられている」のプロトコルが出来上がるのだわ!!
いいわ。
あってる。
検証。
そう!!あってる。
ふふふっ(笑)
違和感がない。
私は、自分が導き出した答えが「直観的に」
正解か、否か。
を照合させる。
このレーダーはとても鋭く、違和感を抱くと「私は私に教えてくれる」。
自己犠牲をよく感じる方というのは、
「主体性がない」のが原因です。
自分の意志で決める。
自分が「したいからしてる!!」っていうやつね。(笑)
それが「薄い」と、自己犠牲的な感覚が強まる。
って、私のデータが導き出した。
導き出した=私の直観の感覚分析のことです。
分析の形態は
そうね・・・
「物理演算型超演繹的オーバーフロー制御GM」です。
(👆
知らないけど、勝手に勘で「導き出す」
それが私の感覚分析です。
曲を即興で弾いているのと同じ感覚です。
適当なの。
どうやってやってる?できるのかもわからない。
これも、勘で書いてる。
親は。
「赤ちゃんのお世話を」
「させられている」と思うと
とたんに「私の時間が無くなる!!(怒)」
「私のしたいことができない!!(怒)
って、まるで自己犠牲して、赤ちゃんのお世話をしている感覚になるのね。
でも、「私は赤ちゃんのお世話がしたくてしているの!!」って主体性を発揮している人は
そんな風にならないでしょう?
つまり、自分でしたいと思っていない、自分でするんだ!!と決めていない。
そして、その結果の責任を受け止める気すらない。
自分で「私はしたいからしているの」って決めきること。
自己犠牲が強い人に足りないのは「主体性」。
以上。