昨日から学校がはじまっています。
夏休み明けは不登校が多いので、頑張って学校に行ってくれたというだけでも親としては一安心です。
今日のテーマは不公平感です。
障害を抱える子供を持っているとどうしても不公平感を持つことがあります。
なかったらすみません。
私は、ブログでなるべくポジティブなことを書いていますが、できた親ではありません。
他の人の自閉症のブログを読んでは「すごいなあ・・・偉いなあ。私も頑張らないと!」と思っています。
3日前くらいに、私は家で爆発して「産まなきゃよかった!!」と息子に言ったんですね。
(後日、聞こえていたかは別として息子には謝りました。)
そして、「私も生まれなきゃよかった」と思ってのたうち回りました。
偉そうなことをいつもブログで言っているくせに、本当に申し訳ございません。
どうやら私は「自分=相手」(無意識)が強いらしくて「自分を否定しているとき」は世間も拒絶する癖があるようです。
まあ、ひきこもりやすいということです。
この拒絶は、どこからきているか?というと
悲しみという感情からなんですね。
充電の方法というのは様々でして、「外でぱー-っと騒いで充電したくなる」J人もいれば「1人にならならいと充電できない人」もいます。
前者は外向性、後者は内向性の高い人です。
ですから、内向的な人を励ますときに「外で遊びにいこう」とか「気晴らしに外へ」とか言ってはいけません。
これは、外で人に会って元気を充電できるタイプの外向的な人が、自分はそうだから他人もそうだろうと思って無邪気に言ってるだけです。
この時点で「あなたを見てくれていない」のでほっておきましょう。
内向性が高い人は一人で感情に向き合って整理する必要があるんです。
ポイント
悲しみは
「もう放っておいてよ!!」「1人にして!!」「関わってこないで!!」「近寄るな!!」という気持ちを引き起こします。
それはさておき。
その次の段階に進むと「人生は不公平だ」という感覚が生まれます。
この段階では「悲しみ」という気持ちを「実感できていない人」が。
抑圧された悲しみをわかっていない人(自己認識できない人)がですね。
「怒り」として表現してしまうことがあるのですね。
それが世間や社会への怒りとなってしまうのです。
それって「悲しいんだよ」っていう自分の声を封じ込めているんです・・・・。
これは男性の表出に多くてですね、「オレはこれが悲しいんだ」ってうまく認知できていない男性が
「悲しみを怒り」として自己表現してしまったりします。
反対に女性は「私はこれが悲しいの!!」っていうのはわりと抑圧しない傾向があります。
この段階で「悲しみ」をわかっていれば怒り(副産物=二次感情)に進まずにすむことが多いです。
例えば、わかりやすいのは男性ですと「自分のことを信じてくれなかった」という悲しみを「怒り」になりやすかったりします。
「キミは僕を信じてくれないの?悲しいよ」なんてなんだか言えないですからね。
その悲しみが怒りとなって感じて表出することがあります。
それはさておき。
私は先日、息子に怒ってしまったとき
悲しみをうまく認知できなくて、「世の中は不公平だ!!」という怒りと「みんなキライ」という悲しみ(拒絶)が混ざって
すごい精神不安定になりました。
ちょっとHSP気質なので、感受性すごいんですよ。
音量のボリュームを大きくするみたいな。
「私はこんなに頑張っているのに、頑張っていない人が簡単に幸せになってる」
「こんな世の中(不公平な世の中)は滅べばいい」
「障がい者は関わった人(周り)を不幸にする」
私はこのように感じました。
私は「感じること」っていうのは、否定しません。
前の記事でも書いたのですが「どんな感情」も生きている証。
あなたの感じていることはそのまま認めてあげなければなりません。
それができてから、はじめて「認知の歪み」は変えることができます。
現在は、認知の修正済みです。
私は自分の感情を顕微鏡でのぞき込むようにして、認知を分析することにしています。
認知の修正は30~1時間くらい終わります。
(右脳優位でやるときは、これを浄化と呼んでいます。怪しい。笑)
浄化というと怪しいのですが、「悲しみ」「怒り」などが目に見えない領域展開ですから、「浄化」という領域展開で対抗するのが効果的だからです。
まあ。要するにマイナス感情を黒だとすると、白い絵の具で消しましょうね。ということ。’(浄化)
みたいな感じです。
この浄化の方法は、「あなたの生い立ち」「あなたの気持ち・感情」「あなたの体験への意義や意味」と、「他の人たち」を並べて行います。
「自分」と「みんな」という感覚です。
手っ取り早いのは、ここの「自分の気持ち」と「みんな」の部分で生かせること(意味のあること)感謝できることをさがすか
あげられない場合は、「対象となる人(Or多数)」に対して
前頭葉を抽象度を高めてフルで働かせてください。
例えば
「障がい者は私を不幸にする存在だ」と感じた場合。
メモ
①まず、自分の気持ちを否定せず受け入れます(感情を観察・認めてあげる)(怒りや悲しみなど)
②次に①の気持ちの対象となる相手「例:障がいのある人」を思い浮かべましょう
(前頭葉優位で行ってください。感情→相手ではなく感情を観察→相手)
③このままですと「①怒りや悲しみを」「②に感じている」だけの状態で終わります
④ここから前頭葉の介入をします
①をするときから、必ずメタ認知してください。
入りは「感情」からでもいいです。
感情のボリュームが上げ切らないうちに、メタ認知を発動してください。
過去の感情を分析するときは、徹底的にやらなければいけません。
そのためには、その時の感情をおもいっきり引っ張り出す必要があります。
私は意図的に引っ張り出したわけではないのですが、前日に息子に怒ってしまった出来事に罪悪感を感じていまして。
次の日も抑うつ状態になって、涙が出てしまったんで、そのときに勝手に引っ張り出されたのでやりました。
(全部、無意識です)
長期記憶は側頭葉というところに保存されるのですが、そこまでいってない感じです。
たぶん泣けなかったので、悲しみがあとから来たんでしょう。
そういうのはよくあることなのです。
家出した子どもを「怒る」のもそうです。
交感神経優位だと怒りのほうが早く出て、あとからリラックスしているときに本当の感情が出たりしますので。
家出の場合、本当は「安堵して泣く」のが本当の気持ちですが、「どれだけ心配したと思ったんだ」なとの怒りが先に出て、それから「よかった」と子供を抱きしめるでしょう。
(もちろん、逆の場合もありますし、怒りに発展しないこともあります)
苦しいですが、過ぎ去ったことにしていては、真っ黒いまま封じ込めることになります。
私は、必ず「自分の感情に向き合って完全に受け入れて、その感情の意味づけを他の人を含めてする」ことを徹底してきました。
前提認知として「この世の中はみんなが公平で幸せにならなければならない」と感じている場合もあります。
その場合は「この世の中は理不尽で頑張っても報われない人もいれば報われない人もいる」という事実を受け入れます。
どうしても頭でわかっていても、自分が理不尽な目にあったとき(自閉症の息子からの暴言や暴力・八つ当たり)に「どうして自分ばかり」(世の中って不公平だ。私の人生ってなんなの?)となってしまいやすいです。
(私の場合はです。ならない人はそのままでOkです)
これは「悲しみ」が怒りにかわってしまっているので、まずは「悲しみ」を認めるところからです。
私は怒りは感るけど悲しくなんてないよ?
という人も、家事などしててふとした瞬間に「涙が出る」ときがありませんか?:
それは、あなたの涙が「私は悲しいんだよ、ちゃんと気づいて」と言っているのです。
そしたら、①をやってあげてください。
このときは、私はかなり抽象度を高くしてやるのですが
人によって「好きな方法」には個人差があります。
感情を感じているだけだと、「受け止める」(自分の感情を受け入れる)のが難しい複雑な感情の場合には
難しいかもしれませんが、自問自答してください。
感情を聞いてもらうときに、他者に「質問されながら」だったら、奥深くまで感じてた気持ちを吐露することができるでしょう。
それと同じことを自分で自分にしてください。
(これが①)
②のやり方は流れの前に描いたのですが、「②感情の対象者」を「①の自分の感情気持ち」の隣(並列)におきます。
必ず、隣におきます。
そうすることで、自分と同列次元の存在ということを認識してください。
何いってるのかわからないと思います。
意識や感覚の話なので・・・・
人は、実はたいていの人は「自分と相手」を同列で見ています。
(これが健康な対人関係です)
しかし、不健康な対人関係の築き方では「上か下か?」でしか対人関係を築けない場合があります。
自分を上に置いたり、下に置いたりする人もいます。
前者は相手を見下すということです。
自分を下においても同じこと。
「自分を卑下したり、自分なんて・・・」と思って下から相手と向き合うのは、相手に「支配されにいっている」ので不健全です。
そこに信頼関係がないからです。
ということで、同列の存在次元に位置付けるというのは、「意識の中で序列をつけずに自分と相手(②対象の存在)を隣におく」ことからはじまります。
それができたら、メタ認知を発動してください。
その前でもいいです。
メタ認知を発動すると淡泊になりすぎるという場合は、前頭葉の「相手の立場」から介入してください。
それでも難しい場合は、「本能(大脳辺縁系)の共通項」からアプローチ→前頭葉の順で介入です。
今回、私は「知っていること・知らないこと」アプローチから、「②障害者」へのアプローチを試みました。
もう、この人、変すぎる。おかしいと思われても構いません。
「自分は何を知っていて何を知らない」というのは「存在レベルの次元」(メタ認知視点)ならば簡単にできると思います。
ポイント
入りやすい要素から入る。
ポイント
- 「共通項を探す」(相手を自分の仲間意識を強めることができます)(★本能)
- 「違い探し」(自他の区別をつけることで相手の気持ちを尊重)(★前頭葉介入)
- 「無知の知」(相手について知っていること知らないことを知る)(★前頭葉優位)
- 「違っているが同じだ」(★前頭葉優位)
この流れでOKです。
これを「嫌ってしまった障害者」を対象にして行いましょう。
私の場合は「同じ苦しみを知った」(共通項)という点で同情心を持つところまでいけたのでOKです。(浄化おわり。)
同じ苦しみとは、例えば
私は22歳くらいの頃、スーパーで走り回る子どもは親が全部悪いと本気で思っていました。
しかし、この嫌っていた「ギャーギャー騒ぐ躾のなってない子ども」の親に自分がなるわけです。
これはですね。
人生が、私にこう言っているのです。
これはあなたの人間力があがる鍛錬だと。
(★そういう意味づけなだけです)
このまま私は「あのとき嫌っていたときの親のようになってる今の自分を受け入れずに自分を否定して生きるのか?」
(注意1:自己否定あるいは子どもを否定 精神状態によって違います。子供を否定しているというのは自分否定とほぼ同じ感覚なので。
注意2:意識では区別です。自分への認知、他者認知、世界の認知の3種が一体感覚を持っている場合は自己否定感は世界への否定に置き換わることがあります。恋愛でハッピーだと世界がバラ色に見えるのと同じ。)
それとも「嫌っていた親の苦しみや大変さを理解して自分を受け入れることで。」
受容することで。
世の中の「走っている子を持つ人たちに共感できる、心に寄り添える親になるのか。」
どっちだ。
選ぶのです。
問われている。
私は人生で子供を通して人間として器の大きさを問われているんですね。
後者を選べば人として成長できます。
苦しいんですけどね。
簡単にできることは現状なので、成長ではないのです。
成長は時に自分がドン底に落ちているくらい苦しいからこそできることなのですよ。
だから、自閉症の息子は未熟すぎた私を「人として成長するため」に生まれきてくれているんだな~と思います。
これは本当でして、今ではスーパーで走る子どもにイライラすることはないんですよ!!
そして親がちょっと気になります。(笑)
でもそれは「大丈夫かな」「こんなに元気なお子さんで大変じゃないかな」っていう意味で気になるだけで。
昔の私のように「だから子どもは嫌いなんだよね!!(怒)自分勝手に好きなことばっかするし、うるさいし!!親はどういう躾してるんだろう?」って思わなくなったのです。
これが私の成長なんですよ。
人としての・・・・
もちろん、乗り越えられたときだけです。
乗り越えられずに「受け容れられない場合」は親も子もそこに「エネルギー」を消耗してしまっていつまでも苦しい。
でも、人として成長できると思って乗り越えてください。
だってそれしかないんですよ。
障害の育児って。
子供の成長に一喜一憂するのではなくて。
自分の成長を一喜一憂すればいい。
子どののおかげで、共感力増えた!!とか。
子どものおかげで障害者の人の辛さを学べた!!とかです。
本当に難しいですよ、高機能の親の私でもこんなに大変なんですもん。
重度知的障害や医療ケアが必要なお子さんはもっと大変なことと思います。
でも、人としては成長するんですよ。
というか、それ(認知を変えて受け入れて器ちょとずつ拡げる)をしないと病んでしまいます。
私はパニック障害が治ったのも子どものおかげなんですよ。
自閉症の子どもの問題行動を受け入れなきゃいけない度に、自分にむきあう必要があるからです。
だから、「子供の問題行動が変われば私の問題はなくなるのに!!」(*これはABAでやりましょう)
って怒っている親はいつまでたっても成長できず苦しいままです。
障害の子を育てる意味づけも自分でしなきゃいけないですし、本当に楽ではありませんね。
でも、だからこそ、人生の醍醐味ともいえるんですけどね。(笑)
ドラマチックだからです。
(訳:お金持ちに生まれて平々凡々と苦労もなく幸せになりました!!完ではドラマにならないからです)
って、誰だっけ?YouTuberさんが言ってました。
たぶん、そんせらさんだと思います。
困難があると「ドラマ」はより面白い。
それは、傍観者の場合でしょう?
渦中の人間はたまったものではないという声が聞こえそうです。
そういうことではなくて、一歩引いた視点で見たときに「ああ、自分の人生はドラマチックだな」と思うか?どうか?です。
私は、「この自閉症の子どもを育てながら苦悩し仲間と共に成長しつつ自分の夢も叶えていく」という一連の私の人生を
ファンタジー小説にしようと思います。(いつか。)
まあ、嘘ですけど。