前回の話の理論と一緒におもいついたのがこれです。
「障害者に偏見を持っている人ほど、障害児を産んだら苦しい」です。
これは、当たり前な気もしますが、以外と当たり前じゃない気がします。
なぜかというと、一般的には「自分の子どもに障害があった」と知ったら
誰でも受容できないのは当たり前だから。
誰でも「障害のない子を願う」から。
という理屈です。
しかし、それは「病気(明らかにそれが害の場合)」でしょう?
自閉症は、別に病気でないです。
だから、体から取り除くということがそもそも間違いですし
アイデンティティとなっているので、
「自閉症が憎い」というのは、「自閉症の人という存在が憎い」と同じです。
(私の中ではです)
しかし、前にも書いたように
「自閉症=病気」と思っている人と
「自閉症=その人そのもの」と思っている人の2種類わかれます。
私は、自閉症ってその人の存在そのものなので、
「こんな風にした自閉症が憎い」という感覚はわかりません。
(意味としては解かります。感覚的にはわからないだけです)
それは女性が「女性として生まれた女性が憎い」といっているようなものだからです。
大きな矛盾を抱えることになりますね。
女性としての生理的機能で生まれたことは、取り除けないからです。
それは、女性性を否定してるとなります。
どうように「人間はなんて愚かなんだ。でもそんな醜い人間という生き物と同じ自分も人間だ。」
みたいな葛藤と同じです。
私は、この感覚は
小3くらいのときになりました。
なぜかというと、歴史や国語で「戦争」があったことを知るからです。
人って、己の利益のために、こんなにも残虐で、醜いことができる生き物だったのか・・・と
恐怖したのを覚えています。
これは、例えば「怖がって嫌悪している対象」
それが、自分であることの認識。
例えば、あるゲームをやっているとします。
主人公は、ゾンビになっていません。
しかしバイオハザードのような世界で
仲間(人間)を〇した「ゾンビ」がいるとしますね。
それを主人公は憎み、銃をもって戦うのです。
正義の名のもとに。
しかし、実は、ストーリーの途中で気づくのです。
自分はすでにゾンビになっていて、仲間を〇したのは、他でもない憎んでいた自分であることに。
こんな感じですかね。
小3のときに、「あ、自分って醜い生き物だ」と思って
人間という生き物にショックを受けて動揺して、
それが自分にも流れている(人という生きものとして)ことにショックを受けました。
この人という生き物への冷めた感情と嫌悪は、思春期を超えてもなお、解消はされていませんでした。
私は人と己の中にあるであろう「醜さと残酷さ、利己的さ」を憎んでいたので、(そしてそんな人間に生まれた自分も同類なので)
「新しい命を産みだす」なんてこと。
みんな、頭どうかしてるよ。
脳内お花畑だ。
人って、そんなに美しいものじゃないだろう?
(戦争を習って)本質を見ただろう。
「結局は自分が大事なんだよ」
己の利のためなら、同胞を抹殺できるんだから。
まるで「人の命をゴミ」のようにね。
私は、怖かった。
結局は、エゴがある人間。
それを戦争で嫌というほど見知った。
それによる人という生き物への恐怖。
それは、人間である自分への恐怖と同じだったんです。
私は、人としての自分を受け入れられないまま、「人としての悪」を受け入れるのを拒んだままに
人間の「善」の部分だけを自分に当てはめようとした。
せめてもの、人間への抵抗だった。
つまり「いい人間として生きる」ということです。
「人に迷惑をかけない」
「人が困っていたら必ず助ける」
「自分を犠牲にしても人を助ける」
「人からお願いされても断らない」
「ボランティアを積極的に行う」
私はあいつら(戦争を起こすような人間)とは違う!!
しかし、私の焦りとは裏腹に「この世は腐っている」という感覚は抜けないのです。
(つづく)
【追伸】
自閉症を憎んでいるというか、認められない人は私の「人間を憎むけど人間やめられない」という感じと同じです。
これは親がなるというよりも、当事者さんの方がそのように思いやすいです。(親もなります)