自閉症の育児方法

慢心と謙虚。【長文注意】

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こんにちは。

 

今回のテーマは「慢心と謙虚」です。

 

これは、ここ1週間くらいで得た学びです。

年明けから、悲しい出来事が相次ぎました。

 

これらのことは、直近での課題を考えるとともに

 

自分たち世代の生き方などや教訓を学ぶいい機会でもあります。

 

いい機会というのは、出来事としてはよくないのですが

 

私たちというのは、生きているわけです。

事件や災害から、学び、後世に伝えることができるのです。

 

地震や災害というのは、我々に慢心を教えてくれます。

 

いえ、間違えました。

地震や災害のもうひとつ上ですね。(もうひとつ上=抽象度をあげる)

 

自然というものは、私たちに慢心を教えてくれるのです。

 

山での遭難事故もそうですが、相手は自然です。

その自然に対しての慢心が、私たち人間の足をすくうのです。

 

どんなに低い山でも、自然の力を侮れば足元をすくわれます。

 

(今回の災害で被災者の方が侮っていたといっているのではありません)

 

自然と人間を比べたら、自然の力は圧倒的です。

 

大昔、自然のその強大な力の前に畏敬の念を抱いた人間は

 

「自然に神様」が宿るとしました。

 

私は、命に慢心しないようにしようと思いました。

 

その次は過信に気を付けたいものです。

 

過信とは、過剰な自信のことです。

 

過剰に自分のことを信じるということです。

 

これはとても大事な感覚で、自分のことを信じるのは必要なのですが

過信はよくないです。

 

私が30代で得た前提に

 

「私は人を傷つけることもある」

「私は(基本的に)他人を知らない」

「私は(基本的に)知らない」

「世の中はいい人間も悪い人間もいる」

「私は間違える」

 

これで、かなり対人面の許容が増したはずです。

 

これを逆にしてしまうと、かなり放漫になります。

 

「私は人を傷つけない」と思っている人間は、簡単に人を傷つけます。

どんな人、すべての人間を傷つけないように生きるのは不可能です。

 

故意に、人を傷つけようといっているのではないのです。

 

私が、何かを言ったり、行動したことで、誰かが傷ついて、わたしに何かをいってきても

私はそれを受け入れるということです。

 

ここで、「私は他者を傷つけない」という前提で物事をみていますと

何かを言われたときに、身を守ってしまうのです。

 

例えば、この世の中、日本は特に

「自分よりも相手が幸せになること」が許せない国民性なのだそうです。

 

ですから、女子の中では「失恋している子」がいるのに結婚した報告をすれば

「心がないのか」「人間じゃない」「鬼」「空気読めない」と叩かれます。

 

「1人が苦しいときは、みんな(同じ集団)も苦しむもんだ」

「1人だけ幸せになるなんて 許せない(ずるい)」

 

このような価値観がうずまいているのです。

これを「美徳」と呼んだりするのですが

 

私は、これにキラキラしたイメージが見えないので

これは本質は美しくないのです。

 

(怪しく思うかもしれませんが、わたしは見えない領域(エネルギー)が美しい性質のとき、キラキラと見えます)

 

怪しくなくてですね。

あの人、輝いて見えるという表現ありますよね。

ですから、感覚としましては、本当にキラキラしているわけです。

 

私は、本当に美しいもの(エネルギー)に触れたとき

自然に涙が流れるようになっています。

 

美しいものを見ると泣けるようになっていますから

泣けてない=本当は美しくないのです。

 

もちろん、悲しくても泣きますし

嬉しくても泣きます。

 

しかし、美しさに涙も流すほどに

私は感受性が高いみたいで・・・・

 

ドラえもんでも人間としての「美しさ」などが輝いているストーリーだったら

ボロボロ泣いてます。

 

最も、強い美しさの「涙」というのは

 

「誇り」を捨てたときです。

 

どうやら、人は誇り高くあるよりも

 

誇りを投げうっていることが美しいみたいなのです。

 

ん?

 

それは違うと。

 

違うというのですか?

 

ちょっとお待ちください。

ここで、直感が「それはちょっと間違っているわ」といってきたので・・・

 

★直感=心の声

 

誇りを投げうっているように見えて、誇りを捨ててないのだと・・?

 

誇りとは「そうある自分」だというのです。

 

で・・・では何を捨てているのですか?

 

恥・・・?

 

恥を捨てるというのですか?

 

恥は自尊心に影響を与える部分です。

恥を捨てて「そうある自分」を保つのだそうです。

 

??

 

恥・・・?

外の恥をということですか?

 

恥という感情は、まだあまり私独自の感覚分析が終わっていません。

なので、かなり高次の感情のため、かなり作用機構などを解明するのに時間がかかります。

 

 

誇りの定義は「こうありたい自分であり続ける」ということです。

 

これは、感覚ですでにわかっています。

 

主軸の違いかもしれませんね・・・。

相手から「こうありたい自分」とのイメージ合致のミスが起きるんだと思いますね。

 

例えば、「(あの人は)綺麗好きだろうな」と思われていると思っている自分(=他者からの自己認識A)

と「うわ・・・ズボラだったんだ」という(=他者認識からの自己認識B)

 

 

ああ!!わかりました。

 

恥は、「他者の自分イメージ」がネガティブに変わったことへの恐怖ですね!!

 

まあ、ズレです。

 

基軸は「他者」にあります。

 

ちなみに、誇りは「内面」になるので、「自分軸」です。

 

こんな分析をネットでやるなよ…と思いますよね。すいません。

 

かなり話がズレてしまいましたが

 

これによって、「自閉症の子どもを恥ずかしいと思う親」の分析が進みそうです。

 

なるほどね!!

「こうみられたい私がいるのに!!」という欲が強いってことね!!

 

 

あーこれはいい気づき。

感情の因数分解や、言語をパターン化してれば、他人の言語パターンずっと当てはめて気持ちの推測に使えるからね!(笑)

 

 

 

「躾をしっかりとしている親だと思われたいのに!!」(他者から見た願望の自己イメージA)

「きっと躾のなっていない親だと思われている!!」 (他者から見た現実の自己イメージB)

願望の自己イメージ90-現実の自己イメージ40=50(恥のダメージ)

(数字は想いの強さ)

 

 

願望と現実のギャップのイメージ(自己イメージなので本来は自分の中だけにあるもの)のギャップが

 

外にばれてしまった(露呈した)みたいな感じね。

 

つまり「自閉症の子が恥ずかしい」というのは

 

理想の子どもと現実の子のギャップです。

 

や・・・・そんなのわかってない?(笑)

 

細かく計算式書いて計算するほどのことかな・・・・(汗)

 

つまり「恥ずかしい」と子どもに言う人は「マイナス感情の他者ギャップを持たれる!!(ばれる)」って思っているんですね?

 

ああ~これはもう勝った!!(笑)

「謎」というゲームに勝ったぞ!!

 

(私は謎を解き明かすことが好きなのです)

 

 

「恥ずかしい」という感情って、嬉しいときもあるじゃないですか。

これもつながりました。

 

例えば他者から「○○さんって、こういうところがあるよね」って指摘されたとします。

 

これも「自分が(無意識に)思っていた他者からの自己イメージ」と「相手から想われている自己イメージ」のギャップによって

その差が、顕在化されることによって

 

嬉しい気づきになるんだ!!

 

恥って、ギャップでしかなくて

 

それが「マイナス感情」=思ってもなく(=ギャップ)情けない恥ずかしい。

それが「プラス感情」=思いがけず(=ギャップ)嬉し恥ずかし。

 

 

久々に、また人間の感情を因数分解できた。

やった!!

 

 

まだ終わってませんでした。

 

恥の分析が終わったところで、話を戻して、最後までつなげないとです。

 

 

>誇りを投げうっているように見えて、誇りを捨ててないのだと・・?

>

>誇りとは「そうある自分」だというのです。

>で・・・では何を捨てているのですか?

 

 

 

一番美しいと(私が)思っているのは「誇り」なのそうです。

思考では、わたしは「誇りを捨てている人」は美しいんだろうなって思ってたんですね。

だから、さっきの文章でそう書いたんです。

 

でも、わたしの直感は

「そうではないよ」

「恥を捨ててる人が美しい。誇りは秘めておくといい。」というものですから・・・

 

恥の分析をしたんでした。

 

恥とは

 

「他者からの自己イメージと自分のイメージとのギャップ」である。

 

これは、さきほど、分析済みです。

 

つまり、これを捨てたものが美しいと私の直観がいってるのですね。

 

代入してみます。

 

「他者からこう見られるだろう。だが、世間や他人からどうみられてもいい。(=恥を捨てる)わたしは〇〇だ。(そうある自分=誇り)」

 

 

よし、言語化できた。

 

他者や世間の目を捨てて、そうある自分=誇りを言うだけで美しくカッコよくなると直感がいってます。

 

ちなみに「誇りは秘めておくといい」と直感はいっていますので

 

私は○○です、と言っても言わなくてもいいのでしょう。

 

 

ということは、「私は自閉症の親です」とカッコよく言えたら、誇り高く、美しいということになりますね。

 

何者であるか?が誇りなので。

もし、わたしは障害の子の親だと、名乗る(バレる)ことが恥ずかしいとなるならば、

 

理論的には

「私は何者であるか?」について

「私は障害の子の親であること」ついてギャップがある=恥

ということになりますね。

 

この理論でいうと

 

どんな人でも、誇りを持てて、美しくカッコよく在れると思いますね。

 

たとえしがない「清掃員」でも、カッコよく在れるのです。

 

だいたい、わかってきました。

今日はこのへんで。

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  • この記事を書いた人

ぴょん

はじめまして。ぴょんです。 中2自閉症男の子の母親。 支援や療育の記事だけを別のブログに引っ越しました。 サイトはこちら 発達障害の療育の勉強をしながら、自閉症の親として成長していく体験レビュー型ブログを目指しています。 そのほか、自閉症やADHDの子育てで気づいたことの情報発信もしています。 よろしくお願いします。

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