自閉症の育児方法

自己責任論の誤解と自分のこととか。

このページはアフィリエイト広告を使用しています

こんにちは。

 

自己責任という言葉があります。

 

私は自己責任的なモノの見方を心がけています。

 

しかし、世の中には「自己責任」をネガティブに考えているいらっしゃる方がいます。

これは、自己責任という言葉への概念の違いだと思います。

 

自己責任=「あなたのせいですよ」という意味ではないんです。

 

 

英語で自己責任は「self-responsibility」と書きます。

 

責任は「レスポンシビリティ」なんですね。

 

最近、7つの習慣という本を読んんだのですが

その中に「これ、説明するのにぴったりだ」と思ったんですね。

 

反応する能力です。

つまり「自己責任」とは「自分で反応する力」なのです。

 

自分で何に反応して、何に反応しないか?を決めるのです。

 

どうやって反応するのか?を決めるのです。

 

夫に愚痴をいっていても、何もはじまらないじゃないですか。

 

その結婚相手は自分で選んだのだから。

無理やりあなたの意志に反して勝手に縁談が進んでしまったならば、あなたの責任じゃないですけど・・・

 

目のまえに展開する現実は、いつかのあなたが望んだことなのですね。

 

絶対に結婚したくない!!って過去に決めている人ならば、目のまえの「結婚している自分」は展開されていないからです。

 

すべて、あなたの思い通りになっているはずなのですよ。

思った通りというのも、誤解があって、「自分がコントロールできる範囲のことを自分で決めた範囲内での思い通り」ということです。

 

この感覚を身に着けていない人が、「自己責任」と聞くと「そんなわけない!!相手が悪い!」となるのでしょうね。

 

愚痴をいうくらいなら、離婚すればいいのです。

そして、離婚できない理由があって、離婚できないのであれば、それを受け入れるしかないです。

 

私の母は離婚しています。

私には父がいません。

父に抱っこしてもらったこともないし、優しい言葉をかけてもらったこともなければ、励ましてもらったこともないのです。

 

赤ちゃんの時から、父は「DV・浮気・借金」などで

母は泣いて過ごしていましたので・・・・・

 

変える実家というのは、私にはなくて、母が1人で生活保護をもらいながらアパートで過ごしているだけです。

母の妹は重度知的障害のダウン症です。

私の叔母になります。

 

この方と、幼少期は同じ敷地内で過ごしていたんです。

(建物は別です)

私が幼稚園のときに、心臓が悪かったのでなくなりました。

 

なぜこんなことを書くか?というと、「自己責任が大事と言える人は、恵まれてた環境に育って、苦労していない人だから言える」と言われたらいやだからです。

 

でも、家庭環境のせいで私の未来が決まっているなんていやだったんです。

 

自分でどうにかしたいし、私にはできるはずだと思っています。

元々、私は母の過干渉と毒親気質のために、パニック障害を発症して病んでいたんです。

 

パニック障害と強迫性障害になったとき、精神症状がひどく出ていたので重度だと思います。

地獄のような日々の中で、私は、絶対に生まれ変わると泣きながら、必死でできることをしました。

 

かなり重い症状で、歩くこともできないし、みぞおちがきゅーーーーとなって、意識を失って

意図しない怖い映像が次々と見えてきます。

エレベーターのように重力が乱れて、地面がぐらぐらして、立っていられないのです。

 

食事はとれず1か月で8キロやせて、1時間しか眠れなくなってから4日目あたりで、幻覚が出始めて怖くて怖くて・・・・

睡眠時パニック障害なので、寝ると発作が起きるという恐怖で、交感神経は常に高まってしまい、セロトニン神経がほとんど働きませんでした。

 

現実と妄想の区別がつかなくなり、人が亡くなったニュースを見ては、「私のせいだ」と責めていました。

ずっと、桃が川から流れてくる映像がみえていました。

 

ですから、ブログを皆さんが意味のわかる範囲で書ける人って、意味のわかる文章を書ける程度なんだなって思っています。

頭の中の怖い妄想の世界に支配されて、ブログで言語化していることなんて、到底できないくらいの精神状態なので・・・・

 

現実と妄想が区別できなくなったら、布団で自分の頭の中の「妄想の恐怖の世界」しか見えないので・・・・

 

そんな私は、その世界から3週間くらいで抜け出したんです。

それが「自己責任の考え方」だったんです。

 

それまでは、やはりどこか受け入れてなくて、何か不満や責める気持ちがあったんですね。

 

精神疾患になって、辛すぎて助けてほしくて、あまりの私の「めちゃくちゃな妄想と攻撃性と依存」に夫も、母も、医師も周りの人すべて

 

すべて「いい加減にしてくれ。」と見放されたのです。

しかし、それによって、「ああ、もう1人しかいない。誰も私を助けられなかった。もう自分しかいないんだ・・・」と

精神的に孤独になってはじめて

 

「自分しかいないんだ」と思ったんです。

 

そして、自分で病気と向き合って治すしかないんだ・・・と吹っ切れたことがあります、

 

これは本当に精神的に「ひとり」になれたからこそ、自分で生きるしかない、という気持ちになれたんですね。

 

だから、依存を断ち切ってくれた(突き放してさじをなげてくれた人たち)」には感謝しているんですね。

 

私には、幸いなことに「見捨てられ不安」が少なかったため

 

ただ、本当に1人なんだ、誰も私の脳の病気を直せないんだ・・・とわかったのです。

 

私は、白昼夢では「川(過去・現在・未来)の映像から桃が流れてくる映像」を繰り返しみていました。

 

桃は、新しく赤ちゃんが生まれるということを意味していますので、

「新しい自分が生まれ変わる」という象徴の夢のようなものです、願望ですね。

でも、この映像ははじめ、顕在意識で意味がわからず、怖かったのですが、

 

「新しい自分になれる。新しい自分になれる。」と繰り返し意識していたので見えたのでしょうね。

それくらいうわごとのように言わなければ、精神状態が保てないほどに

重度だったのだと思います。

 

言語思考がいっさいできなくなった恐怖を皆さんは知らないでしょう?

言語思考ができなくなったと同時に

 

直感像記憶が見えるようになったので

(写真の焼き付けたような記憶です。これは拡大や縮小されます。

大きくなる=目の前にいるような現実感になる 小さくなる=現実感が薄れる)

 

うーん・・・。

あ!!皆さんにも理解していただける説明をみつけました。

 

それはディズニーランドのバーチャルリアリティの世界だと思ってください。

映像が大きくなると「現実感が高まる」でしょう?

その映像が小さくなって、プロジェクションが小さくなって、シアターボードの端っこの方にいってしまえば

 

「こっち(アトラクションに座ってる自分側)の現実感」が強くなります。

 

 

直感像記憶と、映像思考しか見えなくなった私は「ああ、私は変になってしまったんだ」

一生、言語で思考できないのか・・・・とひどく絶望しました。

 

 

そして、自分の意識は朦朧としていましたが、「山肌と崖にいる私」の映像も見えていたのです。

 

この崖は、人里離れた世界です。

この崖から降りることを決意して、私は「その山」をあとにしたのです。

(その山から絶対に下りると決めたということです)

 

不安障害の人は、例えると「高い山」に住んでいるようなものなのです。

 

高い山は「恐山」となづけられているので、その恐山の空間にいる人は「恐怖」を感じるようになります。

 

その山から出たらいいのですが、その山に登っているのは「津波が来るから山に逃げ込んでいる(=安全だと思っている)」なのです。

 

不安障害の人は「未だ来てもない恐怖を創り出して浸っている」のです。

 

高い山で津波を怖がっているのが、不安障害です。

その山に登ること=津波が来ても大丈夫を意味します。

しかし、それと同時に「山に登る行動」は「津波が来ること(脅威の知覚)」を前提としています。

 

しかし、そこにいれば「安全」だと錯覚しています。

 

つまりこれを打破するには「自分が信じていることと反することをする」ということになります。

 

「これをしたら、私は死んでしまう(おそろしいことになる)けれど、それをする」ということです。

つまり「一回、死んでもいいや」って思うと抜け出せるということです。

 

自分が信じていることをしても、死ななかったら「自分の信じていることが誤っていたこと」に気づけるでしょう?

 

 

AするとBになる

 

このような公式を「不安クラスタ」の人は持っています。

 

例えばそうですね・・・。

 

「地面のひび割れを踏む(Aする)と人が1人死ぬ(Bになる=脅威)」

「手を洗わないことをする(Aする)とばい菌によって死ぬ(Bになる=脅威)」

などです。

 

別に「死ぬ」と認識してるいうことではなくて「何かおそろしいことが起きる」という言語化できない感覚です。

この感覚を「脅威」といいます。

 

 

強迫性障害は、別に「几帳面」「神経質」とかではなくてれっきとした思考のエラーです。

 

儀式的な迷信的な認知によって歪んだ思考(強迫スキーマなど)があって、それを避けるために手洗いなどの行動を反復しているという感じです。

 

ですから逆説理論で「Bになるために、Aをする(しないでおく)」ということをしたら即効で治ります。

 

つまり「死ぬために(Bになる)Aをする(しないでおく=する)」といったことをしないと

基本的には強迫性障害や不安障害(の根治)はできません。

 

自分の信念が正しいのか?下向き矢印法などで、探っていいく認知の修正もあります。

あるいは「信念の強さスケール」といって、どれくらい信じてるか?【0~100%】で記入する方法もあります。

しかし、それは手間がかかるし遅すぎますし、何より「メタ認知」を促すものなので、

 

一気に直せません。

実践的ではない。

 

 

私が実践したことは、エリス博士の論理療法、暴露妨害反応などに当たるのかと思います。

 

 

強迫性障害も同じ心理の流れがあります。

 

ただ1つ。

 

その疾患を直す方法があります。

 

「津波が来ると思っている下の町」にいくことです。

 

そして、「安全」を確認することです。

 

しかし、山の上で安全確保をしている人は、下に降りたら死ぬと信じています。

 

でも、やるしかないんです。

山のうえだとずっと下の町(現実世界のことです)からは、やや遠いため、

現実との境は「うすぼんやり」としています。

 

ですから、不安障害や強迫性障害などの不安系の精神疾患では「現実認識」が落ちます。

 

意識が違う世界にいっているからです。

これがひどいと、「妄想」と診断されます。

 

あと、精神疾患になる人は「向上心」が強すぎてなることがあります。

 

「よりよく生きたい」「よりよい人生を歩みたい」という欲望が強すぎるとなるんです。

 

人というのは「動的エネルギー」があると、必ず反動のエネルギーというのが生まれます。

輪ゴムを引っ張れば引っ張るほど、そこにエネルギーがたまっていくのがわかりますよね?

 

それと同じで、右に力を加えると左(反対方向への力)も働くのです。

 

例えば「生きたい」と強く思うことは、「死というエネルギー方向へ引っられているから」なのです。

 

よりよく生きたい・こうありたい!!というのが強すぎるので

 

その反動の負のエネルギーも、表裏一体でついてくるのです。

 

ちょっと長くなってしまうので、また書きます。

とにかく、自己責任論というのは、自分が自由になるための一歩なのです。

 

 

【追伸】

3週間くらいで、直感像記憶が薄れるにしたがい、言語での理解が強まりました。

まるで、本当にもう一度「赤ちゃんをやり直した」みたいですよね。

でも、精神疾患一度でもなった場合、「生まれ変わる」くらいの覚悟と行動で認知の変容と価値観の再構築をしないと、また繰り返します。

精神疾患が出た時点で「あ、何か生き方た価値観を変えないとまずいんだ」って思ったほうがいいです。

 

ランキング参加していますヽ(^。^)ノ

  • この記事を書いた人

ぴょん

はじめまして。ぴょんです。 中2自閉症男の子の母親。 支援や療育の記事だけを別のブログに引っ越しました。 サイトはこちら 発達障害の療育の勉強をしながら、自閉症の親として成長していく体験レビュー型ブログを目指しています。 そのほか、自閉症やADHDの子育てで気づいたことの情報発信もしています。 よろしくお願いします。

-自閉症の育児方法

error: Content is protected !!