こんにちは、ぴょんです。
皆さんは、自閉症の診断がついた自分の子供に「自閉症という障害に対しての適切な支援」をしていますか?
本を読んでいたら、気になる文章を見つけました。
視覚支援や絵カードを使うことを拒否する親がいるということについて、問題提起をしています。
「この子はちゃんとしゃべれます!」
「社会に出たら絵カードで生活できるわけじゃない!」
「自主性を大切にしています」
だから、絵や視覚的な手がかりによる支援を「子供にやりません」という考えのようです。
(参考書籍:自閉症の特性理解と支援、ぶどう社、藤岡宏著、P118~119より)
これについて、「自閉症の特性理解と支援」の本では「回答」がのっていますので、私の意見も述べつつご紹介したいと思います。
自閉症の絵カードの手がかりを拒否する親は、「目の不自由な人に点字ブロックに頼らずに歩け」というようなもの
社会に出たら写真や絵に頼れないのでカードを使わせたくないという親や先生
驚くことに本では、このように述べられています。
「社会に出たら、絵や写真が用意されているわけではありません」といって絵や写真を外される先生がいらっしゃいます。」
(自閉症の特性理解と支援、ぶどう社、藤岡宏著、P118~119より引用)
自閉症では、言葉による理解や意味を読み取るのが難しいです。
その代わり「映像や絵を理解すること」は得意なのですが、それを「拒否する」先生や親がいるというのです。
いやはやびっくりです。
支援をわざわざ「こんなものに頼るな!」といって外したり拒否する先生や親がいるとは・・・・(苦笑)
絵やスケジュールなど「見えないものを見えるようにして情報の理解を助けてくれるもの」を「視覚的手かがかり」と呼びます。
この視覚的てがかりは「眼の不自由な人にとっての点字」と同じなのです。
自閉症の人によって「視覚的てがかり」はあったら便利ではなくて、「ないと困るもの」です。
写真や絵に頼らなければ「言語が育つのか?」答えはノー
写真や絵に頼って生活をすると、将来、社会で困るから頼るのはよくないという意味ですよね。
しかし、では「写真や絵カード・スケジュール」などの視覚支援をしないで育ってきた人たちは今どうなっているのでしょうか?
現在、大人の発達障害と呼ばれている人達がいます。
その方たちは「自閉症の特性」を理解されず、支援や療育を受けてこられなかった人たちです。
荒波にもまれて「言葉で生活できるようになった」のでしょうか?
そうではないことは、周知の事実のはずです。
今、大人の発達障害の人は、二次障害と呼ばれる「うつ病・パニック障害・強迫性障害・行動障害・反社会的パーソナリティ障害・反抗挑戦性障害」を発症したりしている人が多いです。
さらに、親にあるがままの自分を認めてもらえなかった場合は、「愛着障害・境界性パーソナリティー障害」の可能性が高くなります。
ちなみに筆者は「うつ病・パニック障害・強迫性障害」と病院で言われたことがあります。
筆者の診断は「アスペルガー傾向の疑いあり」です。
グレーゾーンです。
大企業の研究職で働いていましたが、グレーゾーンの私でも当たり前ですが、かなり厳しいです。
グレーゾーンで時に「定型だね」と診断名が変わる私ですが、それでも仕事は厳しいのです。
「アスペルガーの診断基準をすべて満たす日」と
「アスペルガーの基準を満たさない日」の差があって(医師にそう言われた)
医者が変わると「診断がコロコロ変わりまくる」という境目にいる私みたいなどっちつかずの人は、どんな支援も受けれません。(笑)
むしろ自閉症とがっつり診断をされているならば、支援を受けられるのでラッキーです。
療育を否定する親はどこにしない理由があるのでしょうか、謎です。
最悪なのは、障害の特性を知っていながら放置されることなのです。
自閉症の特性を知りながら適正な支援をしないのは「虐待(ネグレクト)に匹敵する」
自閉症の特性と理解にはこのように書かれています。
「自閉症の特性を知りながら、適正な援助を行わないのは、虐待(ネグレクト)に匹敵する」という声が、児童精神科医の中でも高まってきています。
(自閉症の特性理解と支援、ぶどう社、藤岡宏著、P118より引用)
人は、頑張ってもできないことがあります。
それが個人の努力ではどうにもならないから「障害」の域に達しているのです。
それを「個性」だとか言っている時点でおかしな話です。
これは本に載っていることではなくて私の意見です。
個性の範疇で済まないから障害なのです。
息子くんの障害は個性だよね!(笑)
ママ友に、明るく軽い感じで笑いながらこのように言われたのは、とてもイラっとしました。
自閉症の親の中にも、すぐに「うちの子の個性なので!!」と言って支援や療育をまったくしようとしない親がいます。
これはある種の現実逃避だと思います。
個性というキレイごとにすることで、障害を見つめることから逃げているのです。
だから、他人から言われたら「障害をちゃんとわかってない!!障害を見つめてないくせに!」と他人事でモヤモヤするのです。
そして、親の場合は「障害から逃げてることに気づかない」のです。
うちの子はしゃべれるから「絵カードはいりません」という親が知らない事実
その言葉は「自閉症の子どもの意志」が反映された言葉ですか?
この子はちゃんと言葉が出ているのに、
なぜ「絵カードや視覚的なてがかり」を使うのですか?
このような疑問はありますか?
これは間違った解釈でして、親が事実を知らないから起きてきます。
(自動的に覚えてるだけで意味を理解しているかは疑問)
✅口で言っていることと気持ちが正反対のこともある
✅普段は言葉でコミュニケーションがとれるが
不安やストレスなどで日によって「言葉でうまくしゃべれなくなることもある」
自閉症の人の言葉を私たちは「言葉は(本人の)気持ちを正しく反映されたもの」と思い込んでしまいがちです。
しかし、療育の先生がこんなことを言っていました。
みんな(親)言葉をうのみにしすぎなんですよ。(笑)
これは決して、「親は簡単にだまされてやがる」とバカにしているという意味ではありません。
自閉症の方は「自分でも気持ちがよくわからない」時もあります。
例えば、親がプリンを食べているとき。
自閉症の子どもが「プリン。お母さん。食べてないね!食べてないね!!」としゃべっている状況を想像してみてください。
この場合は自閉症の子供は「親にプリンを食べて欲しくない」という意味で「自分がプリンを食べたかった!!」と伝えたいのかもしれません。
しかし、親からしたら・・・
「プリン?食べてるよ?」(意味わからん
とわかりにくい場合もあります。
それくらい言葉というのは「相手視点」「自分視点」「主観」「客観」の少なくても4つの視点を組み合わせるのもあって、難しいものなのです。
そんな時でも、プリンと食べたいの絵カードを出せば「気持ちがわかる」のです。
「状況とセットのとき音として言語を覚えてるだけ」というのもよくあります。
ですから「〇〇してはだめです」と言っていても「その言葉の意味を正しく理解して使っているとは限らない」のです。
(今日は、ブログの記事の構成を考えず、話口調で適当に書いているので雑です。すみません。)
子どもの自主性を大事にしたいから視覚支援や構造化を使わないという親の誤解
構造化や視覚支援は「従わせるもの」という前提条件がないですか?
もし、親の中で「絵カードで動かすなんてかわいそう」「自分がやりたいことを決めてのびのび育てたい」と思ってる方がいるとしたら、それは誤解です。
✔絵カードは言うことを聞かせる道具ではない
✔自主性を育てたいから支援はしない
こんなような誤解だと思います。
まず、「決められた枠組みで過ごささせると自主性が育たない」と言いますが、
「自主性」とは「子供本人が状況を理解して意思決定することではじめて出てくるもの」です。
そうでなければ、情報に振り回されて混乱するだけです。
自主性は以下の要素で構成されています。
✔選ぶ意味がわかる
✔選んだことを周りに伝えられる
これらの要素を整えてあげて、自己決定できてはじめてそれが自主性になってくるわけです。
定型発達の私たちが「自主性」を発揮するのは、言われたら簡単にできることかもしれません。
しかし、自閉症の人にとっての自主性は「選べる」ことと関連しています。
その機会を作るためには、むしろ視覚支援で選ぶということを経験させてあげる必要があるのです。
まとめ
自閉症の特性を知っておきながら支援をしないのはネグレクトになるというのは、びっくりしました。
しかし、目の見えない人に「点字ブロックに頼るな!!なんで見えないの!」と怒鳴るのは確かに虐待です。
それと同じで「絵や見えるものならば理解できる」という特性をわかっていながら、言葉で子供をどうにか躾けようとしている親も同じなのかもしれません。
私もそういう時期はありました。
耳に痛い言葉を本からもらいましたが、親はこれくらいの意識でいないといけないのかもしれません。
改めて身が引き締まる思いです。
学校では「支援をしてくれない先生」を怠慢だと責めるならば、「親の私はどうなのかな?自分は自閉症という障害を認めて適せな支援をしているのか?」という振り返りをするといいと思います。
自分がこのような怠慢になったことがあるから書いています。