こんにちは、ぴょんです。
自閉症の親が、療育をあきらめてしまう原因として「無力感」をあげてきました。
>>【いつまで続くの・・・?】負のスパイラルから抜け出す手順。【自閉症の育児】
私も、過去に、無力感におちいってしまったことがあります。
ですから、誰でもおちいってしまいがちなので、気を付けていかなかればならないものです。
うつ病や詐欺もそうでして、すべての物事は「自分だけは大丈夫」と思っているよりは「誰でもなるから気を付けていこう」と思ったほうが、結果的には予防できると思います。
さて、無力感ですが、物理的には「自閉症の子どもに何をしてもムダだ」という学習によってつくられる確率が高いと書きました。
しかし、それとあと1つ。
自閉症の育児を「努力したけれど、何をしてもうまくいかなかった」という経験がなくても無力感が出てしまうことがあります。
それは「完璧主義」の人です。
完璧主義は、完全主義というみたいですが、ここでは聞き馴染みの多い「完璧主義」と表記します。
この完璧主義の傾向を持っている人は、以下のようになってしまうのです。
「やる前からあきらめてしまう」
例えばこのようなことです。
- もう50歳だから新しくはじめてもムダ
- 定型じゃないから療育をしたところで変わらない
- 美人じゃないから、ブスがどれだけ頑張ってもムリ
- 50円節約したところで、年収低いんだから意味ない
例えば、わかりやすい例えだと
年収が350万円の旦那さんがいたとしましょう。
あなたは、料理も無駄なく使生きるために、冷凍保存や作り置き、フードロスなども意識して
頑張ってお金を貯めています。
しかし、ふと思います。
「これだけ私が頑張った努力も、年収が多い人はこんなことしなくても貯金ができているんだろうな。
なんか私の頑張りってなんなの?って感じ。(これは完璧主義ではなくて比較による不公平感ですが書いています)
それに、元々、入ってくるお金が低いんだから、節約したところで意味なくない?手取り50万円だったら、そりゃ節約だって苦にならないよね。(完璧主義の人の考え方)」
この例では「比較による不公平感による自分の頑張りの虚しさと、完全主義傾向のダブルコンボになっています)
ちょっとわかりにくかったかもしれません。
赤字は「完璧主義の人の思考パターン」になります。
これは他の例ですと「元々、美人だったら、もっと頑張れるのに。」
ということです。
この場合、容姿のレベルを10段階にしたとき。
どのレベルにいても、完璧主義をもっていると、キレイになる努力をしようとしません。
なぜならば「完璧な美人(自分の思う100点)レベルに達する見込みがないとわかった時点で」
自分の理想に達していないので、やってもムダだと思ってしまうからです。
10点よりは13点の容姿の方がいいじゃないですか。
57点だったら、63点の方が点数的には高いです。
しかし、その中間を認識しにくいのが、完璧主義です。
白黒思考といったりもするようです。
「障害の子が何をしたところで、しょせんは障害変わらないじゃん」みたいな。
2つの軸で考える考え方です。
「定型か?障害の子か?」みたいな。
「学校に行けるか?いけないか?」
「病気が治るか?治らないか?」
「美人か?ブスか?」
「いい子か?悪い子か?」
「天才か?バカか?」
みたいに、極端に偏った思考ということです。
これを自閉症の育児×「無力感」にあてはめると
「どうせ何してもこの子が定型になることはない。
だから、療育なんてしてもムダ。期待するだけ辛いから、私はあきらめたんだよね」みたいになります。
これは、私は勝手に後ろ向きの受容(の思考パターン)と呼んでいます。
繰り返しますが、この思考パターンは「学習性無力感」に近いものがあります。
そして、「やる前(自閉症の療育をする前)から陥るのが完璧主義」「やって陥るのが通常の学習性無力感」っぽいものになります。
余談ですが、「っぽいもの」というのは私が感覚で分析して、この概念だろうなという「言葉」にあてはめているからですね。
私は分析を感覚でやっているからです。
この感覚を説明しますと「曲を聴いて」「ん?この曲、米津玄師っぽいな~」ってなるのと似ています。
伝わりますかね?
感覚分析は、「似ているデータ(要素の抽出)で、パターン認識」のことです。
(えっ?パターン認識ってなに?)
すみません。
また適当に書いてたので、顕在意識(の理解)が追い付いてなかったです。
「顕在意識の理解が追い付いてないって、怪しい。」って思いますよね。
いえいえ。怪しくないんですよ。
私はこの文章は、そうですね・・・
ダンスや、音楽を即興で弾くのと同じ感覚で書けますよってことです。
執筆も、「芸術分野」なんでしょうね。
感覚で「音楽を弾ける人」もいますよね?
感覚で「踊れる人」もいるでしょう?
それと同じで、感覚で分析して、文章を書く人だっています。
だから、私にとってブログの記事は「曲」に近いのですね。
ちょっと話が飛んでしまいました。
でも、感覚を50文字という音を操って、言葉として、意味が通るものにするのですから、
不協和音にならなければいいのですよ。
作曲だって、「どれみふぁそらしど」という音階でしょう?
それにコード進行などで、「調」が決まってくる。
音が出ているのが「どれみふぁそらしど」だけれど。
音が出ない「五十音」だって、それを感覚で書くってあると思いますね。