こんにちは、ぴょんです。
今日も持論を好き勝手に述べさせていただこうと思います。
自閉症の育児をしていると、努力しても報われないことがありますね。
この壁のぶち破り方としましては、まず自分で壁を打ち立てていることがあるということを自覚することが大事だと思います。
「努力しても意味ないじゃん(報われない)」ってなるのは、自分の中で起きています。
事実ではない。
「努力したら必ず報われる」という自身の思い込みがあるから、「努力したはずなのに報われてない」と思ってしまう。
世の中って努力しても、報われないこともあるのです。
あと世の中は、基本的に理不尽です。
なので、清く正しく人のために頑張ってきたから、いい人生を送れるというわけじゃありません。
日本では、昔話を読み聞かせてきたせいで「正しい行いをしていれば最後には幸せになれる」が浸透していることがあります。
そんなことはないです。
あれは、理論的にはおかしいのです。
アリとキリギリスも、ただの気候の違いで運よくアリが勝っただけに過ぎないのです。
強いて言えばアリは「次に何が起きるか?」=この世界ではいずれ冬になって食べ物がなくなること
を知っていただけにすぎません。
予測が的確だった、あるいは「短絡的ではないこと」の重要性を説いています。
いま頑張ったら、未来に幸せになれる
ではないのです。
いまの頑張りが、的外れだったら、当たり前ですが成果は出ないです。
まずは、これ(努力=成果が出ないこともある)を受け入れてないと、自閉症を育てるのが精神的に辛くなってしまいます。
「努力は裏切らないよ!!もっと頑張ったらできるよ!!」って言っている学校の先生は、本当に努力したことがない人です。
努力しても、自分にはできないことがあるんだなって域まで達してないのです。
挫折していないから知らないのです。
つまり努力の向こう側を知らないのです。
本気で努力したとき、ある種の挫折や限界というのは見えます。
でも、そこは単なる「現時点での己の力の無さ」ということに過ぎないこともあります。
(本当の限界の場合もありますが、限界ってそもそも固定ではなく移動していくのです)
努力とは、自分がちょとできることではないからです。
いつもの自分よりも、ちょっとはずれた基準のところに行くのが、努力です。
ですから人によって、努力は変わります。
いつも90点取っている人が、85点とるのは努力とはいいません。
しかし、いつも30点の人が70点とったらものすごい努力ですよね。
基準(いつもの自分)から、ずれているからです。
この「いつもの自分」からズレる度合いのことを、努力(変化)」というのです。
話がそれましたが、努力はただの「自分の基準からはずれる変化の度合い」(のエネルギー)です。
そのため、それが必ずしも報い(=報酬)につながるわけではないです。
自閉症の子の場合は、挫折までさせてはいけないかもと思いますが。
でも、頑張ればできないことがあるというのは、自分が体感しなければわかりにくいかもしれないのです。
努力しても報われないという事実を知る。
それには本気でやることです。
・・・って療育の先生が言ってたんですね。
つまり、「うわーーーーできないーーーわあーーーー!!!もうやらない!!(怒)」ってなっている自閉症の子は
実は、ちゃんと自分に向き合っているんだというのです。
そんなバカな・・・・(笑)って私ははじめ思ってしまったんです。
「また・・・この子は問題から逃げようとして!!」って向き合ってないとすら思っていたのです。
つまり、自閉症の子は、すでに努力しまくっているということになるのです。
なぜならば、自分はこんな風になりたかった・したかった!!という自分の基準があるからこそ、そこに辿り着いてない現実の自分とのギャップで、うわーーーってなってるからです。
(推測です)
本当に自分に向き合ってないと、「こんな自分になりたい」も何も出ないらしいのです。
ですから、このエネルギーは実はとても使えるのですね。たぶん。
最初は説明されても、ピンとこなかったのですが、体験していったら、なんとなく理解できるようになってきたんですね。
あとは、これは本当に持論ですが
子供にとってのいい母親とかなんていない。ということを知ることだと思います。
(自閉症の)子どもから見たいい親って、「自分の都合通りに動いてくれる優しい親」だったりすることがあるかもしれません。
でも、だからといって自閉症の子どもに何を学んでほしいのか?が学べることとは≒ではないです。
いい母親≠子どもが学べる親
この図式が成り立たないので、いい親でいたからといって、子どもが成長できるとは限りません。
つまり、いい母親と思ってもらうことを捨てる覚悟が必要だったりすることもあったりするということです。
支援の心得みたいになっていますね(苦笑)
でも、これでいいんです。
支援が成功するのは、マインドが結構な割合を占めていると思うんです。
人を元気づけるには、自分がまず元気でなければできないですよね。
それと似ていると思います。
もちろん技術や知識もいると思うのですが、やっぱりマインドだと思います。
その土台を整えることにとりあえずエネルギーを注ぐのが重要だと思うのです。
それさえ、しっかりとしていれば、やり方がわからなくても、なんとなく成果が出てくると思います。
支援するマインドを整えたあとに、私の場合はですが「子どもにこうなってほしい」というゴールをかなりしっかりとイメージします。
この時に大事なのが、「親の自分が子どもがこうなってほしい」ではないということです。
ここでつまづいていることがわかったら、ただちに修正しなければなりません。
例えば、私は、最近、自己認知支援をはじめました。
しかし、そのゴールが無意識に「子どもが将来困らないように」という負の動機にかたむいていました。
「将来、これがないと困ったことになるから、これを身につけなきゃさせなきゃ」というのは、負のエネルギーなのです。
これも匙加減ひとつでして、いちがいに「これがないと困るから」という動機で教えることが、すべて負のエネルギーなわけじゃないです。
これがないと社会・生活で困るのは事実としてあります。
それに、母親の不安もくっついてること(並存)もあるんですが、このエネルギーは要らないのです。
不安が動機だともれなくたいていは失敗することが多いです。
私は、ゴールのイメージが、無意識に「子どもが自己認知が低いことで子ども自身が大変なことになることへの怖れ」が少しあったみたいなのです。
これは人によってさまざまでして、「重要度の高いもの」は感情が強くなると思います。
例えば「学歴が幸せになるために重要だ・必須だ」と思っている人は、学歴が低い子ども=不幸になってしまう
と無意識に図式が出来上がっているかもですね。
これは、自分がここまでやってこれたのは、学歴のおかげだと思っている人は、自分の認知がそうなので、そうなります。
自己認知をしながら、なんとかこれまでやってこれたと思っている人は、自己認知が低い子どもを見て「人生の困難を乗り越えられないのでは?」と思ってしまう。
この場合、怖れは子供ではなくて「私自身の感情」になってきます。
つまり自分が不安になりたくないためです。
子どもに将来、幸せになってほしいと願うのはどんな親でも同じです。
でも、極論、どうしようもなくなって生きづらくて困ってる我が子でもいいですよねっていうことです。
だめなんですよ、子どもにとってはよくないのですが、親はそういう子になったとしてもそれはそれでいいやって思うくらいの気持ちということです。
イメージでは真っ暗な世界で、自己認知が「灯り」の役目を果たしてるイメージ。
これはまずいと思った私は「子どもへの支援のゴール」(マイナスにならないために)」をプラスに変えるためにイメージの修正をしました。
もうこれは完了済みです。
時間をかけてでも、必ずやってください。
例えば「自己認知がないと子供が将来、あなたが困ることになるよ」という動機で支援を教えてはだめです。
これは、「将来、犯罪者になったら困るから、二次障害になったら困るから支援する」のと変わらないのです。
これは子どもに失礼ですからね。
生活保護じゃないんだから。
(生活保護は、貧困による社会的な混乱を招かないために集団の秩序を守ることを目的として保証されている国の制度です)
あなたの支援の前提が、「子どもが困ったことにならないため」という無意識の自分の不安に気づいたら、即刻変えるべきです。
私は、私の支援の目的が「真っ暗な世界で迷子にならないため」という前提が、変なことに気づいた。
なので、自己認知支援≒カンテラをやめて
自己認知=地図とコンパスに変えました。
これならば、子ども自身が「(自分が)たどり着きたい場所にいくために必要」なのが、自己認知という考え方です。
自分で好きなところに行くためにワクワクしてもらうのです。
自分のことを知れば、きっと世界も同時に広がっていくはず。
そうすれば、自分で冒険することだって可能なのです。
それはきっとワクワクしたものに違いないはずですから。