Twitter開けたらこんなツイートが上がってきてたんです。
市電の吊り革にあったキャッチコピーが素敵すぎる件。 pic.twitter.com/Y2Hs6LwFXE
— 小川修史(おがっち)🌱障害を斜め135度から考える研究者 (@ogatti21) December 3, 2022
素敵なキャチコピーですよね。
ということで、今回はこれについて思ったことを書いていきます。
障害は【その人ではなく】社会の間にある。
まず「障害はその人ではなく社会との間にある」というキャッチコビーに、私はおおむね賛成の意見です。
電車のつり革というのは「社会的な場面」でして、多くの色々な方が利用しています。
つまり社会的なメッセージ性としては、ターゲットは「障害者ではない人」を想定していると思います。
ですから「障害を無関係だと思っている人に社会全体と障害の間を意識させる」目的を明確に短文で意識できるので、これでいいと思います。
しかし、本音でいいますとこれだけだと「ちょっと弱い」という意見を私は持っています。
ポイント
障害はその人の中に確かにあるという感覚も、同時に持ち合わせたほうがデメリットがないと考えます。
- 社会全体の問題意識を高めるメリットがある
- 当事者や親が「障害は外にある」と鵜呑みにしてしまうデメリット
なぜデメリットになるのか?それを説明していきますね。
【理由その1】社会のせいにするから
障害は基本的には「本人の中にある」と私は考えています。
もちろん、外にもありますし、それは集団によって変わってくるハードルのようなものですから、属性が変わると誰でも持つ可能性のある流動的なものというイメージです。
その場合、私がインドにいったらヒンドゥー語をしゃべれないことが「言語の壁(ハードル)」やハンディキャップとなりえるのです。
日本の官僚は、島国で資源が豊富であったために「国内でなんでも済んでしまう・賄えてしまった」という背景があるために、他の国の官僚と違って「英語が得意」ではありません。
その場合、日本人は英語が苦手というグローバルの視点でみると「日本の官僚は英語が苦手=ハードル」のようなものが存在するとみることができます。
ですから、これは社会の移り変わりやによって変化する「ハードルと壁」=障害といっているにすぎません。
ポイント
この理屈ですと、流動性が高くなる(つまり状況によって障害ではなくなる)という点が導かれます。
【理由2】障害は外にあるという医師が「診断を外す」ことが増えているから
障害は外にあるという考え方だけだと弱いという理由の2つ目は、「自閉症の診断を外す」医師が増えているということです。
本来はデータを示す必要があるのですが、考え方を伝えるだけですので重要ではないため引用はしません。
その医師の考え方に伴って、「できることが増えれば障害者じゃなくなる」と希望や心の支えになさっている親御さんもいらっしゃいます。
そして、それが1つの目標となっているケースもあると思うんですね。
実際によくTwitterやチャットなどを探索していますと、「大きくなって適応できたから自閉症の診断がはずれました~」と喜んでいる親御さんのツイートが散見されます。
素敵なことですよね、私も嬉しい限りです。
でも、どうしても私は一抹の不安がよぎってしまうのですね。
それは「適応できているから障害の診断を外してしまう」とその子の外側しか見えてないのではないか?ということです。
実際に私の自閉症の息子は学校にとても適応できていたのですが、それ(できていること)しか見えていなかったために不登校にさせてしまった反省すべき歴史があります。
本人が外側に見せているのは、あくまでも外側にすぎません。
いとも簡単にやってのけてるように見えて、本当は、感覚過敏で100倍の神経をすり減らしているのかもしれません。
外ではできるから、力があるのではなくて、それは「自分の上限と下限」のなかの上限をめいっぱい超えた130%頑張ってようやくできているのかもしれないのです。
電車のつり革の「障害はその人ではなく社会にある」という考え方は、これを補うためにあるものと私は考えています。
つまり本人が130%出せないと適応できない、あるいは20%分しかないので「できない」。
この「できない分」の足りなさを補って助けていただくのが、社会の障害をお持ちの方へのサポートだと思っています。
そのためには、社会にいらっしゃる皆さんが少しでも私たち自閉症のことを「しないのではなくできない」「見えない障害である」と理解していただく必要があります。
このための情報発信はどんどんすべきであり、知ってもらうという意義のある発信につながります。
知ってもらう内容は「同じことをするにしても本人は大変な見えない負荷がある」ということや、「本当にできないことがあるんだ」ということだと私はかんがえております。
ですから、「できることが増えましたので診断を外す」という医師のお考えは、私にとっては真向反対となる違うお考えをお持ちなのでございます。
これはあなたとはお考えが違いますねという話ですから、正しい正しくないという話ではございません。
現に、自閉症の診断が外れて喜んでいる親御さんもいらっしゃるので、私はそれについて何もいうべきことはございません。
ただ、知ってほしいのは「それが本当に自閉症という診断だった」のであるならば、その方はずっと自閉症なんだということ。
できるとみなされて診断をはずれた130%の力で社会に合わせている人は、ずっと「(後ろ盾もなしに)130%の力で社会にあわせていってくださいね」ということを意味します。
それは、私は反対に「酷なことなのではないかな」と危惧せずにはいられないのです。
【理由3】障害は外にあるという考えだと【自分の障害に向き合えない】かも?
「障害はその人本人ではなく社会にある」という考え方は、何どもいいますようにとても素敵な考えです。
皆で支えていこうという一体感を感じることができるからです。
私はこのような感覚で皆さんとつながりを持つことがとても嬉しいです。
反対に「わかってくれない社会を攻撃」するということは、断絶を意味しますから、とても悲しいです。
もちろん、誰でも悲しみを抱くと拒絶するのは自然な反応ですから、一概に誰が悪いということは言えません。
前回の記事でも書きましたように、必要なのはお互いに差し伸べること、歩み寄ることです。
K先生の勉強会でも教えていただいたのですが、「自分のできること・できないこと」「人生をどう生きるか」という違いをお互いに認め合うことは、障害あるなし関係ないのだそうです。
到達したい地点は、ここであると私は考えておりますから、そのためには「自分は何を手伝ってもらうのか」を自分自身で把握しておく必要があります。
自分ができないことを、社会の不手際や仕組みのせい(それももちろんあるけど)と丸投げするのではなく「本当は苦手なぶぶん」を知って、それを周りに伝えて、周りがそれを受け入れてくれるのがベストです。
(★ベスト=これは私のイメージによる願望です)
その最後のぶぶんの「周りがそれを受け入れるための一助」を促す理解のある優しい文章が、今回の「ツイート」であると私は受け止めているのです。
しかし、ものごとにはタイミングがあります。
「社会の受け入れが整う」こと。「自分が障害を受け入れていること」
この2つの準備ができて、この2つをくっつける役目が「知ってください」と私は感じているのです。
社会という世界と、自閉症の人の世界をくっつけることです。
くっつけるという表現でなくても、橋渡しでも、歩み寄るでも、のぞいてごらん。でもなんでもいいんですけどね。
この知ってくださいは「社会への押し付け」になってしまわないように当事者の方が注意しないといけないと思います。
私は自閉症の親のときに、よくやってしまいがちになります。
しかし、その知ってくださいと強く当事者の人が「言わなければならないような社会」というのも、これは問題なのですね。
安心して受け入れてくれるだろうと思っていれば、私たちは「声を荒げなくても済む」ものなのです。
誰でもそうでしょう。
会社でも、「コロナで休みます」と言えない雰囲気だったら、コロナ陽性を隠すかもしれないのです。
本来、自閉症を隠さずにアイデンティティとして受け入れていける世の中であってほしいと願っています。
そういう意味において「診断がはずれて喜ぶ」のは、私は嬉しくもあり悲しくもあります。
自閉症と診断されていることが「いけない」みたいな感覚だからですね。
お考えは人それぞれですから、「自閉症の診断がはずれて喜ぶ」という感覚がわからないわけではありません。
しかし、どうしても私は「自閉症の診断を自然に自分のものとして受け入れている人」側のイメージを持ってしまいますから、そのままでいいじゃないかという気持ちになってはしまうんですよね。
私は傷つかないのですが、これで傷つく人もいれば、希望を持つ人もいらしゃるのですね。
私は、「あなたはアスペルガーっぽく見えないね」と慈恵医大の先生にいわれたときに、反射的に「ありがとうございます」と言ってしまったことがあります。
そしたら、医師は「それはアスペルガーの人に失礼でしょう。とっさの一言をもう少し勉強するように。」とたしなめれたことがあります。
私は裏の努力をそのように評価されたと思ったのですが、医師の視点は違ったのでしょう。
話がずれてしまいましたが、「障害はうちにも外にもある」というのが私の考えということになります。
まとめ
ちょっと疲れたのでまとめられません。すいません。
適当に書くことはできます。
しかし、やはり考えをまとめるということはそれなりになんか脳のどっかを使うらしいのです、はい。