こんにちは。
息子がインフルエンザになりました。
キットでは陰性ですが、インフルだと思います。
自己判断は厳禁ですが、わけあって医療機関に行けないのです。
なので、インフルエンザと仮定して学校を6日間休む(プラス解熱後2日経っていること)ことにしました。
48時間過ぎてる場合は、特効薬もないですし、行っても対症療法だからです。
というか、連れていけないのです。
歩いて行って、歩いて帰ることになるからですね。
39.5℃あるのに、病院に徒歩でいって徒歩で帰れるとは思えないです。
私は運転免許がありません。
夫は、先月から単身赴任です。
タクシーを使うことを考えましたが、「病院で陽性が出たら乗せられない」とのことでした。
これは発熱相談センターで「タクシーはこれから指定する1社だけ可能です。行きはいいのですが、帰りは病院で陽性が出た場合は乗せることができるか?はタクシー会社と交渉になります。その点はわかったうえで、タクシーを利用してください」といわれました。
ということは、高熱のまま歩いて帰ることになることも承知で行ってくださいってことでしょう?
ムリに決まってるじゃないですか(笑)
それに息子に「辛い?あんまり辛いなら病院行く・・・?歩いていけそう・・?」ときいてみましたが「いかないし・・・」と弱弱しい声でいっていました。
そうだよね。
歩けないよね。
吐き気もあって、トイレに行く回数も多いのだから。
いつも思うのですが、私は車の免許がないので、小さい自閉症の子をドライブに連れて行かなきゃ時間がもたない・・って
言っている親を羨ましいなって思ってました。
私は、一日中、家でみてなければならなかったので・・・
どこかにいくときも、基本的に、歩きなので、道路に座り込んでしまうし。
車に乗せる数メートルだけ頑張ればいいだけでしょ?
外に出たら大人しくなる子の方が多いんだから。
家で調味料を撒かれたり
部屋の中で靴で歩かれたり
洗濯物を洗面台にいれられたり
意味もなくおもちゃ箱ひっくり返したり(まき散らすだけで遊ぶわけじゃない)
家具を倒したり
ティファールに黒のマジックで落書きしたり
テーブルの上に乗ってジャンプしながら
電気の紐ひっぱって、つけたり消したり。
そういうのに向きあわないで済むし
家が汚れることだってないでしょ?
外に連れていける手段があっていいよね。
って(当時)思ってた。
私は車で息子と外で気分転換なんてできないから
1歩も外に出ないで過ごす日々が続いた。
この間、違う市役所から「扶養照会」のお知らせが届いた。
実母は生活保護なので「精神的な援助をしてくれませんか?どれくらいできるか?できないなら理由をかく」
「金銭的な援助をしてくれませんか?どれくらいできるか?できない理由」
そして、民法〇〇条「市役所の生活保護よりも親族の扶養義務が優先されます」っていう趣旨の条文がこれ見よがしに書いてある。
子どもって法律上、縁を切れないんです。
勝手に縁切れば?っていうけど、扶養義務が法律で決められているので、必ず市役所から「家族なんだから扶養してね」って来るんです。
元来、親って子どもに「お金を渡したり援助する側」でしょ?
なんなら「遺産」残す側だよね?
それをなんで子どもが親を助けなきゃいけないの?
私だって、障害の子どもいるから精いっぱいなのに。
で、母に「あんたたち(3姉妹なので)がお金なくて私の面倒みれないから私が生活保護になってるんでしょ?!」っていうし。
話が飛びましたが、実家が生活保護じゃない人は恵まれているんですよ。
法的に「扶養義務」が市役所から送られてくるプレッシャーなんて感じなくて済みますよね?
話が飛びましたが
車ない親って、自閉症の子は、ひきずったり、座り込んだり寝そべっているのを、なんとか連れていくんですよね。
公共のバスは1時間半に1本なので無理です。
ですから、車ある自閉症の親は、「車あってよかった。歩いていくのは大変だし」とか思ってないの?って思ってました。
つまり恵まれていることなんて、気づけないんですよね。
で、私がこうやって何かを羨ましがっているとき。
他の誰かは、私を羨ましがっているんですよね。
私が自覚できていない恵まれた要素を
自覚できてないことに、わずかな苛立ちを感じながら。
息子は、ゲームを8時間くらい毎日やっていました。
しかも、聞くに堪えない暴言や壁を殴ることも多いので
病気になってぐったりしている息子を見ると「怒れるくらいの元気な方がいいな。楽だけど。」って思いました。
皆さんは、「ちょっとは病気にでもなれば静かになって楽なんだけどねー」なんて思うかもしれません。
でも、実際になってみないと「元気さ」がなくなってはじめて「やっぱり笑ったり怒ったりできているときの(ふだんの)ありがたみ」ってわかるものなんですよね。
つまり、じゃんけんなんですよね。
命に関わる病気を持っている人は、お金や娯楽はいらないから、健康が欲しいと思ってる。
辛い抗がん剤をしないで、お金も減らないで、命の保障がされていることが羨ましいし、何より幸せってわかってる。
でも健康な人は、「あーなんてご飯が食べれて幸せなんだろう」なんて露ほど思わらない。
お金があったら、苦しみから解放されるのに、とか
もっとみんなから認められて承認されたら・・・とか
違うとこばっか見てる。
承認されてお金も社会的地位もあったらあったで、今度は時間と自由に生きている人が羨ましい。
時間がたっぷりあって自由に生きているニートだけど、認められたり自分に自信が持てずにひきこもっている・・・。
結局のところ、この世の中は、じゃんけんなのだ。
パーには勝てるけど、グーには負ける。
グーには勝つのにチョキには負ける。
チョキには勝つのに、パーには負ける。
みんな、自分にはないモノを持っている人には違う部分で実は勝っていたりする。
ただ、それに気づけないだけ。
「あーまた負けた」「あーまた負けた」とかやってるだけ。
それか「あーまた勝った」「また勝った」とかやってる。
どっちも裏で勝ったり負けてることに気づけないでいる。
でも、やっぱりいつもあるものは気づきにくい。
だから、時々、落ちてみるのも悪くはない。
山の上で見つからないものは、家の前の地面に落っこちていたりする。
私は「それ」を拾って、静かにそっとポケットにしまった。