こんにちは。ぴょんです。
前回、「なりたい自分」とエネルギーについて書きました。
なりたい自分=「社会での役割」みたいなものと書きました。
なぜならば「すでに自分」という存在は、未完全で完全なので、「あなた(自分)」という存在は。
「何者か?」になる必要がない。
・・・からでしたよね?
これを、存在の自己肯定感。
あるいは、存在の受容いいます。
(多分ですけど(笑))
なぜ多分か?といいますと、「感覚」で処理する世界に本来、「言語で名づける」という概念がないのです。
音は音ですよね?
言葉では、本来、言い表せないもの。
曲って「言葉で説明できないでしょう?」
ドレミファソラシド
この「ド」は、音として処理されます。
でも、「この音をド」と呼ばなくてもいいでしょう?(笑)
色もそう。
つまり「自分の感覚の中で区別ができていたら」。
どんな名前をつけたっていいじゃない?ってこと。
ですから、外の世界で言われいてる(呼ばれている)概念。
その名前が、「私の感じているそれ」と≒なのか?はわからないわ。ってこと。
だから、中身、詳しく知っていることが。
「これって●●なんだ!!」っていうのは、あとから気づくわ。
そうね。
性質を先に知る感じ。
でも、本当にそう思わないですか?
紫いろがあるとしましょう。
青と赤を混ぜていくとやがて紫になっていく。
必ず、先に「部分の要素」が集まって、形づくられていくじゃない?
この世界、混ざったあとの世界を見ているようだわ。
まあ、いいわ、それはそれで。
話が飛んでしまいましたね。
戻します。
つまり「何者か?になる必要がない」のです。
ということは、「何者か?」になりたい人は、「社会に見せたい役割としての自分」みたいな側面があるのですね。
でも、それにも2種類あるのです。
「自分という存在が空虚。」つまり私という軸が確立されていないから、「外側に自分を見つようとする人」がいる。
この人たちは、外の世界に「自分探し」と称して、色々な世界に旅立っていく。
でも、自分探しをしていく中で、外側の世界に自分はいないことに気づくでしょう。
幸せと同じね。
見つかるとしたら「他人を通した新しい自分」。
これは見つかりそうですね(笑)
これは、新しい自分を引き出してくれる、あるいは、新しい自分の側面が引き出されるような人間関係の中で起きること。
外側にむけた自分の役割「なりたい自分」は、他人を通しての役割のようなもの。
本来、なりたい自分の前に「自分を確立」(=内側の自分軸)していれば、外にどんどん出ても問題ないわ。
なりたい自分が見つからない?
それは、「他人や社会を通して実現したい自分」だから、当然ですね。
そのときに、過去の自分の嬉しかったり、充実した感情を思い出すとよいです。
例えば「見えないものを探求して分析する」ことにワクワク感が伴う人。
こういう人は、「見えないものを分析すること」が心から好きなのですね。
これに「他者や社会」を通した「見せたい自分」として役割を持たせるのですね。
「見えない感覚的なことを分析する」×「社会で役立つ?」=「研究者?哲学者?」
「見えない感覚的なことを分析する」×「自閉症で役立つ?」=「自閉症の人が見えなくて困っているものをマニュアル化する」
「見えない感覚的なことを分析する」×「世の中に役立つ?」=「他者の見えない長所を発見してあげる?引き出す?」
こんな感じで、他人を通して自分の力が活かせそうな(ワクワクすること)をマッチングしていくのです。
すると「なりたい自分」が見つかるんですね。
これは、「お菓子を作ることが大好きでワクワクする~♡」場合は
「お菓子を作るのが好き」×「社会や人を通した自分(役割)」=スイーツを食べたときのお客さんにハッピーを届ける人
となります。
つまり、自分の作ったスイーツが、他者に喜びを与えるということ。
整理・整頓すると「すっきりして気持ちいい」のが好きな人は、「ホテルでお客様が快適に過ごせるように能力を発揮すること」(役割)」
で、素晴らしい仕事を誇りをもってできることでしょう。
こんな感じで、あなたが「喜んだり・爽快感を伴ったり、誇りを感じられたり、ワクワクする」ことを思い出してください。
この感情を感じたとき、あなたは何をしていましたか?
それがあなたの大好きなことです。
そして、それを社会に向けたとき、自分を生きることができます。
多くの人は、「社会への役割」を無理やりに先に決めてしまう。
だから、ミスマッチが起きるのです。
すると「なりたい自分」(社会での役割を持った自分≒仕事など)」がもはや義務になってしまうのですね。
ちなみに、この義務感は「母親」でも起きます。
母親って「外側にむけた役割」だからです。
これを払しょくするには、
そうね。
2個しかないわね。
「母親業の中から本来の自分がポジティブな感情が起きるものを見つける」
「母親業をしている自分を好きになる」
どっちかね。
母親という役割を義務感でやっていると「させられている感」が出てくる。
そうすると「自閉症の子供のせいで」という感覚になる。
これは無理やり、役割をしている感じになるから。
ちなみに、私は「母親」の役割は捨てています。
感覚的にですよ?
なぜかわかりますか?
私は「母親としての役割」を意識しすぎると、失敗するのです(笑)
なぜならば、そっちは「思考」の担当だから。
私の担当ではないわ。
- 親は子どものすべての責任がある
- 子どもの責任は親がとるもの
- 子どもは親に従うもの
- 子どもは親に意見すべきではない
- 子供のしつけは親の責任である
- 子供は親を喜ばせようと頑張るべき
これらの一般的?な偏った解釈って、感覚には存在しないのです。
そして、この思考の癖は「役割によってエネルギーが高まる」のです。
ですから、例えば母親に「子どもは意見を持つな!!」と叱られてきた方が親になった場合。
思考で育児をしようとした場合。
「子どもは意見するものじゃない」という思い込みができあがります。
(無意識に刷り込まれている)
そして「役割を意識するとエネルギーは増大」するという公式がありますから、
それによって、「子どもはこうするべき!!」みたいな感じになる。
これになったら、かなり育児が困難になります。
だから、私は「役割なんて捨てていい」と思っています。
順番が逆だからです。
みなさん、間違っているんですよ。
「母親だからこうしなきゃ(役割)」ではないのです。
他人や社会を通して「させていただく(ならせていただく)」のが役割なんです。
つまり「自閉症の子どもがいるから」
私は自閉症の親をすることができる。
会社の社員がいるから、「社長」やってられる。(社会→自分)
顧客がいるから、それを売ることができる。(社会→自分)
この子がいるから、母親になれた。
この子がいるから母親やらなきゃいけない。
違い、わかりますかね?
多くは逆なのです、逆なんですね。
子どもがいなきゃ、あなたは「母親」という役割をする必要がありません。
子どもがいて、(子供=他者を通して)はじめて私は「親」として成長できるということです。
社長や経営者も、教師もそうです。
生徒がいるから、自分は教師でいられるんです。
食べてくれる人がいるから、シェフでいられるんです。
読んでくれる人がいるから、私は「読み物を提供」できる役割が生まれるのです。
あなたは、何を通して「何になれますか?」